昭和四十五年七月五日 朝の御理解
御理解第四十五節 「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
昨日ここの四十五節を頂きました。今日は最後に「油断をすな。慢心が出るとおかげを取りはずすぞ」とおっしゃる。頂いておるおかげを落とすという訳ですが、私はここのところをおかげを頂きそこなう、という事だと思うのです。せっかく神様がおかげ下さろうとしておるのを、私共の慢心が邪魔をする。慢心がおかげを頂きそこねてしまうという事になる。なかなか、慢心でないように思うておりましても、慢心の場合があります。おかげを取りはずしよる、おかげが頂けない時には、そこのところへひとつ焦点を置いてみるといい。
これはおかげが頂かれん頂かれん思いよったら、こうい慢心があったからおかげが頂けなかったんだなと、自分の心の上に慢心をいよいよ自分の心から取り除いていく精進をさせてもらわねばならんと思います。
実を云うと、慢心の心というものは、本当にかさ気と慢心の無い者はない、と云われるくらいにみんなにある訳です。ですから信心とはその人間の慢心というものを、いよいよ取り外していくと云うか、取っていくというところに大体教祖様の御信心のあられ方といったようなものは、そういうようなところに強く思うのでございます。そこのところを教祖様は実意丁寧神信心とこう仰せられた。だからその実意丁寧神信心が出来ておればね、慢心の起こりようがない。ところが私共の場合は信心はしておるけれども、いわゆる実意丁寧でない。そこで私共はね、いつも心の中にひとつの戒めといったようなものをね、心の中に頂いておくといいですねえ。
「幼少の時を忘れて、親に不幸のこと」
「口に真を語りつつ、心に真のなき事」果たしてどうであろうかと、
「物毎に時節を待たず苦をする事」
「壮健な時、家業を疎かにし、物事に る事」
「信心する人の真の信心なき事」
これは私が御神 をところところ読ませて頂いたんですけれども、その一つでもです、本当にその事を心の中にかけ続けておるという事は、慢心を出さんで済むおかげになると思うし、最後の「信心する人の真の信心なき事」というところを私共はいつも「真の信心、真の信心」といつも真の信心を求めておればね、慢心が出る事はない。だから真の本当の信心は、どういう信心であろうかというような姿勢というものがいつも必要である。只、信心するじゃなくて、真の信心を一つさせて頂こう、真の信心を分からして頂こうというような、私は思いがいつも自分の心になからなければ、信心してまあ少しおかげを頂いてくるともう安心だと、いわゆる自分がああしたから、こうしたからこうなったといったような思い方をする。慢心が出るとすぐおかげを取り外すと頂きそこなうと。
そこで私共が教祖の信心の、いわばあられ方と申しますかねえ、いわゆる実意丁寧神信心、そこで全ての事に丁寧にさせてもらう。そういう実意丁寧な在り方の中に、慢心は出て来ないと思うのです。それに神信心、いわゆる勿論、真の信心を求めるという事です。真の信心を求めさせて頂く気持ちを強く頂いて、そして実意丁寧神信心。もう本当にですね、私はそこのところに心を定めておかんと必ずその生き方の中からです、慢心が顔を出します。実意丁寧にさせて頂いておると、いわばその慢心の出ようがない。おかげになってくると思うです。全ての事に、だから実意丁寧をモットーにしていかなければいけません。いわゆる面倒くさいと思うのは、もう慢心だと思うていいです。丁寧さを欠いでおる時には、もう慢心が出ておると思うていいです。今日はひとつだけとりわけそこのところを・・・・・
今日、私は慢心が出るとおかげを取り外すぞというところを、慢心が出るとおかげを頂きそこなうという風にここを頂きました。みんながおかげを頂きたいのですから、ですから慢心が出るとおかげを頂きそこなう。これは頂いておるものを落とすというのでなくて、下さろうといておるものを、いわば取り外すという事です。ですから、おかげを頂きたいのですからそこで私共がです、本気でです、私共の心の中から、これは自分の慢心ではなかろうかと思うところは、勿論改めていきますけれども、いよいよ実意丁寧をモットーにした生き方をさせて頂きたい。そして私共の心の中にいわゆる「信心する人の真の信心なき事」とおっしゃる。真の信心を求め続けていくという事。「真の信心とは、真の信心とは」という思いをいつも心の中に持っておる。只、信心するというのではなしに、真の信心をひとつモットーにする事。慢心が出るとおかげを取り落とすぞじゃなくて、慢心が出るとおかげを頂きそこなうというところに今日は、特に特に焦点に置いて、今日一日をおかげを頂いてみてごらんなさい。もう慢心がいっぱい有る事に気がつきます。なる程、これではおかげが受けられない、なる程、教祖様の実意丁寧神信心という事は、もうおかげが受けられる、そのままがおかげを受けられる姿、状態である事を分かります。
金光様の御信心頂いておる者が、いわゆる実意丁寧神信心を抜きにしたら、もういわば金光様の御信心は骨抜きのようなものなんです。ところがなかなか、金光様の御信心をしているけれども、実意丁寧神信心をしている人が実に少ないのです。いろいろなおかげを頂く手だてといった事には、えらい心を使いますけれ
ども、いわゆる実意丁寧神信心を本気でさせて頂こうと願う人は実に少ない。生活の中に、いよいよ実意丁寧神信心が表れてくるおかげをどうでも頂きたい。それがいわゆるおかげの受け物。
金光様の信心では、慢心が出るとおかげを取り外すと、慢心が出るとおかげを頂きそこなうという、もうだから今日の問題、只今の問題です。私共は、もう本当に刻々おかげを受けていかねばなりません。ですから、ここのところをとりわけ一つ今日は心にかけさせて頂いて、慢心が出るとおかげを取り外すぞと、おかげを頂きそこなうぞと、・・・・・私は何かこう の方から、先生と云われたり身代が出来たりすると頭を下げる事を忘れるというような事を云うておられますから、そういう時に慢心が出るのだとばっかり思うておった。ところがそうじゃあない。私共は日々おかげを受けていかねばならない。その受けていかねばならないその受けものがです、慢心があってはおかげを取り外すぞと、慢心があってはおかげを頂きそこなう訳です。
ですから本当に和賀心、いわゆる有り難い、勿体ないと云ったような心はおかげを受ける受けものでありますけれども、そういう心が本当に実意を欠かない、丁寧を忘れない、真の信心を目指しておる心というものを、いつも心の中に頂いておる。いわゆる実意丁寧神信心。もうこの実意丁寧神信心ほどです、素晴らしい事はない。その心がけさえあればです、慢心の出ようがなかろうと、そこに私は日々をです、神様が下さろうとしておるおかげを頂きおえると云うか、神様が下さろうとしておるそのおかげを頂きとめていく、というおかげを頂く為にこの稽古を繰り返し繰り返ししていく事が金光様の信心ですけれども、今日はとりわけね、そこんところをひとつ心に置いて信心生活をさせて頂きたいと思います。
慢心が出るとおかげを取り外すぞという事は、頂いておる大変なおかげを頂いた人が慢心してからおかげを取り落とすという意味もありましょうけれども、慢心が出るとおかげを頂きそこなうぞ、という事を今日はしっかり心に置いて頂きたい。
それで、そのおかげを頂きます心というものは、実意丁寧神信心だと云う事。ですからもう全ての事にです、実意丁寧神信心をそれを生活の中にはめさせて頂き、もう物一つでもいうなら履き物ひとつはかして頂くでも、実意丁寧にはかせてもらおうという事になりますとです・・・・・
もう私はいつも思うのですけれども、ここは入り口がぐるりにいくつもある。そこにいつも脱ぎ散らかしてある。ここにあったのが向こうから上がって、もう向こうに持っていく事を忘れとる訳です。これはもう実意がない証拠です。しかもそれが揃えて上がればいいばってん、脱ぎ散らかしてある。もうそういうところからです、今日はひとつ目細うね、実意丁寧の心をひとつ修行して頂きたい。 実意丁寧、同時に神信心、いわゆる真の信心はそういう中から分からしてもらうのだというような、ひとつ心で今日一日をおかげ頂いて頂きたいと思います。 慢心が出るとおかげを頂きそこなうと、取り落とすじゃない。取り外すぞとおっしゃる。慢心が出るとおかげを頂そこなう。そこのところを今日はひとつ徳に心を置いておかげを頂いてもらいたいと思いますね。どうぞ。